次の御門、廃帝と申しき。 天武天皇の御子に一品舎人親王と申しし第七の御子なり。 御母、上総守当麻の老が女なり。 天平宝字元年四月に東宮に立ち給ふ。 御年二十五。 同二年己亥八月一日、位に即き給ふ。 御年二十六。 位にて六年ぞおはしましゝ。 この御門、東宮に立ち給ひし折は、ゆゝしき事ども侍りき。 孝謙天皇の御時、東宮は新田部親王の子、道祖王とておはせしに、聖武天皇亡せさせ給ひて諒闇にてありしに、この東宮、この程をも憚り給はず、女の方にのみ乱れ給へりしかば、孝謙天皇「折節も知り給はず、かくなおはせそ」と申し給ひしかども、つゆその言に従ひ給はざりしかば、天平勝宝九年三月二十九日、大臣以下「この東宮は、聖武天皇の御すゝめにて立て奉りき。しかるにその事をも思ひ知り給はず、かくみだりがはしき心のし給へるをば、いかゞし奉るべき」と宣はせしに、人々皆「たゞ仰せ言に従ふべし」と申ししかば、東宮を取り奉り給ひて、四月に大臣以下を召して、「東宮には誰をか立て奉るべき」と定め申すべき由、仰せ言ありしに、右大臣豊成、式部卿永手は、「前の東宮の御兄、塩焼の王、立ち給ふべし」と申しき。 摂津大夫珍努、左大弁古麿は、「池田王、立ち給ふべし」と申しき。 大納言仲麻呂は、「臣を知るは君にはしかず。子を知るは父にはしかず。たゞ御門の御心にまかせ奉る」と、各々思ひ思ひに申ししかば、御門の宣はく、「御子達の中に舎人、新田部、この二人はむねとおはせし人なれば、新田部親王の子を東宮に立てたりつれども、かく教へに従ひ給はずなりぬれば、今は舎人親王の子を立て申すべきに、各々咎どもおはす。その中に、大炊王は年若くおはせど、させる咎聞えず。この人を立てんと思ふは、いかゞあるべき」と宣はせき。 大臣以下皆仰せ言に従ふべき由、申しき。 この定めよりさきに、仲麻呂の大納言、この大炊王を迎へとり奉りて、わが家に据ゑ奉りたりしかば、内よりの御使その殿に参りて迎へ奉りて、東宮には立ち給ひしなり。 大炊王と申すは、すなはちこの御門におはします。 かくてのち、この東宮に選び捨てられ給ひつる王達、又、志ある人々数多寄り合ひて、御門、東宮を傾け奉り、仲麻呂を失はんとすといふ事、おのづから漏れ聞えしかば、仲麻呂内に参りてこの由を申ししかば、様々の罪を行はれき。 その程の事ども、推し量り給ふべし。 この程は道鏡もいまだほひろかに参りつかうまつらざりしかば、この仲麻呂、御門の御覚え並びなかりき。 天平宝字二年八月二十五日、仲麻呂大保になりにき。 これは右大臣をかく申ししなり。 やがてその日、大将になりて、もとの藤原の姓に恵美といふ二文字を加へ賜はせき。 是等も皆太上天皇の御覚え並びなくてせさせ給ひしなり。 恵美といふ姓の、御覧ずるたびに笑ましく思すとて賜はするとぞ申しあひたりし。 又、仲麻呂といふ名を変へておしかつとぞ申しし。 同三年六月二日、道のほとりに果物の木を植うべき由、仰せ下されき。 この事は、東大寺の普昭法師と申す人の申し行ひ侍りしなり。 その故は、国々の民、行き来絶ゆる事なし。 その蔭に休み、その実をとりて疲れを支へんとなり。 いみじき功徳と覚え侍りし事なり。 八月三日、鑑真和尚と申しし人、聖武天皇の御為に、招提寺を建て給ひき。 同六年六月、太上天皇、尼になり給ひて宣はく、「われ菩提心をおこして尼となりぬれども、御門事にふれて恭しき気さらにおはせず。かやうに言はるべき身にはあらず。世の政の常の小事をば行ひ給へ。世の大事、賞罰をば、われ行はん」と宣はせて、この後、世を行ひ給ひき。 同七年九月に道鏡少僧都になりて、常に太上天皇の御傍らにさぶらひて、御覚え並びなかりしかば、恵美の大臣、私に太政官の印をさして事を行ふといふ事を、大外記比良麻呂忍びやかに申したりしかば、十一日に太上天皇、少納言を遣はして、鈴印を収めさせしめ給ひしを、恵美の大臣聞きつけて、その道にわが子の宰相といひしをやりて、奪ひ止めさせしかば、又、太上天皇人を遣はして射殺さしめ給ひしに、大臣の使又相互に射殺してき。 かゝる世の乱れ出で来て、大臣官位をとられ、関を固め、軍をおこして討たしめんとし給ひしかば、大臣その夜逃げて近江の国へ行きしに、御方の軍、外の道よりさきに至りて、瀬田の橋を焼きてき。 大臣これを見て、高嶋の郡の方に逃げて、少領といふものゝ家に泊れりしに、星の大きさ甕の程なりしが、その屋の上に落ちたりし、如何なる事にてか侍りけん。 さて越前の国に行きて、相具したる御人々を、「これは御門におはす。これは上達部なり」など偽りいひて、人の心をたぶらかしき。 斯くて御方の軍追ひ至りて攻めしかば、大臣又近江の国へ帰りて、船に乗りて逃げんとせし程に、荒き風吹きて溺れなんとせしかば、船より下りて相戦ひし程に、十八日に大臣討ち取られてき。 その頭をとりて京へ持て参られりしにこそ、同じ大臣と申せども、世の覚えめでたくおはせし人の、時の間にかくなり給ひぬる、哀に侍りし事なり。 又心憂き事侍りき。 その大臣の女おはしき。 色容めでたく、世に並ぶ人なかりき。 鑑真和尚の「この人、千人の男にあひ給ふ相おはす」と宣はせしを、たゞうちある程の人にもおはせず、一二人の程だにもいかでかと思ひしに、父の大臣討ち取られし日、御方の軍千人悉くに、この人を犯してき。 相は恐ろしき事にぞ侍る。 二十日、太上天皇宣はく、「仲麻呂、前の東宮の兄の塩焼の王を位に即けんといふ事を謀りて、官の印をさして国々に遣はして、人の心をたぶらかし、関を固め、兵をおこし、罪もなかりける兄〔の〕豊成の大臣を讒し申して、位を退けたりけり。この事、仲麻呂が偽れる事とぞ知り〔給ひ〕ぬ。 豊成を元のごとく大臣の位にをさめ給ふ。又この禅師、朝夕に仕うまつれる有様を見るに、いと尊し。われ髪を剃りて仏の御袈裟を着てあれども、世の政をせざるべきにあらず。仏も、経に、『国王位に即き給はん折は、菩薩戒を受けよ』とこそ説き置き給ひたれ。これを思へば、尼となりても世の政をせんに何の障りかあるべき。しかれば、御門の出家していませんに、又出家してあらん大臣もあるべしと思ひて、この道鏡禅師を大臣禅師と位を授け奉る」と宣はせて、十月九日、太政天皇、兵をおこして内裏を囲み給ひしかば、宮の内に候ひし人々皆逃げ失せにしかば、御門、御母、又その仕り人二三人ばかりを相具して、徒歩にて図書寮の方におはして立ち給へりしにこそは、少納言向ひ奉りて、位をおろし奉る由の宣命をば読みかけ奉りしか。 その御言葉には「位を保ち給ふべきうつはものにおはせぬにあはせて、仲麻呂と同じ心にて、われを害はんと謀り給ひけり。しかれば御門〔の〕位を退け奉りて、親王の位を賜ふ」とて、淡路の国へ流し奉り給ひてき。 心憂く侍りし事なり。