次の御門、元明天皇と申しき。天智天皇の第四の御女。御母、蘇我大臣山田石川麻呂の女、嬪姪娘なり。この御門は文武天皇の御母におはします。文武天皇、いまだ三十にだに及び給はで亡せさせおはしましにし、いと心憂かりし事なり。その時、聖武天皇はいまだいとけなくおはしましき。八歳にやならせ給ひけん。この頃こそ二三にても位に即かせおはしますめれ、その程まではさる事なかりしかば、御母にて位に即かせ給へりしなり。慶雲四年七月十七日に位に即き給ふ。御年三十六。世を知り給ふ事、七年なり。五年正月十一日に武蔵より銅を初めて奉りしかば、年号を和銅とかへられにき。三月に不比等、右大臣になり給ふ。同二年五月に新羅の使、様々の物を相具して参れりしに、不比等その使に会ひ給ひにき。「昔より執政の大臣の会ふ事はいまだなき事なり。しかれどもこの国の睦まじき事をあらはすなり」と宣ひしかば、使ども座をさりて拝し奉りて、うるはしく又座につきて、「使どもは本国の賤しき者どもなり。王の仰せを蒙りて、今京に参れり。幸ひのはなはだしきなり。しかるにかたじけなく相見え奉りぬ。喜びおそるゝ事限りなし」と申しき。国王・大臣も時に従ひて振舞ひ給ふべきにこそ。この頃ならば、片趣きに異国の人に一の人の会ひ給ふは、なき事なりなどぞ謗り申さまし。同三年三月に難波より大和の平城の京へ都遷りて、左右京の條坊を定め給ひき。これより前々も代々常に京遷り侍りしかども、ことならぬをば申し侍らず。この月に不比等、興福寺を山科より奈良の京に移し建て給ひき。同六年、国々の郡の名を記して、様々の出で来る物どもの数を目録をせさせしめ給ひき。同七年十月、維摩会を山階寺に移し行ひ給ひき。この会は九ところにて行はれしに、その事中絶えて、今年四十二年にぞなり侍りし。同八年九月三日、位を御女の元正天皇の氷高内親王と聞え給ひしに譲り奉り給ひき。