次の御門、文武天皇と申しき。天武天皇の御子に草壁の皇子と申しし皇子の第一の御子。母は、元明天皇なり。丁酉の年八月一日に、位に即き給ふ。御年十五。世を知り給ふ事、十一年なり。三年と申しし五月に、役行者を伊豆国へ流しつかはしてき。その行者は大和国の人なり。広くものを習ひ、深く三宝を仰ぎて、三十二といひし年よりこの葛城山に籠りゐて、三十余年の程、藤の皮を着物とし、松の葉を食物として、孔雀の神呪を保ちて、様々の験を施しき。五色の雲に乗りて仙宮に至り、鬼神を使ひて水を汲ませ薪を採らす。又、御嶽とこの葛城の峰とに「岩橋を渡せ」とこの鬼神どもに言ひしかば、夜々巌を運びて、削り整へて既に渡し始めし程に、行者心もとながりて、昼もたゞ形をあらはして渡せと責めしを、一言主の神、わが容貌の醜き事を恥ぢて、なほ夜々ばかり渡し侍りしかば、行者怒りて神呪をもちてこの一言主の神を縛りて谷の底に投げ入れてき。その後、一言主の神、御門に近くさぶらひし人につきて、「我は御門の御ために悪しき心をおこす人を鎮むるものなり。役行者、御門を傾け奉らんと謀る」と申ししかば、宣旨を下して行者を召しに遣はしたりしに、行者、空に飛び上りて、捕ふべき力も及ばで、使帰り参りてこの由を申ししかば、行者の母を召し捕られたりし折、筋なくて母に代らんが為に行者参れりしを、伊豆の大島に流しつかはしたりしに、昼は公に従ひ奉りてその島に居、夜は富士の山に行きて行ひき。六月に、御門、丈六の仏像を造り奉らんとて、仏師のよからんを求め給ひしに、その人なかりしかば、御門、大安寺に行幸ありて、仏の御前に掌を合せ願をおこし給ひて、よき仏師に会ひてこの仏を造り奉らんと申し給ひしに、その夜の御夢に一人の僧ありて「この寺の仏を造り奉りしは化人なり。又来たるべきにあらず。たとひよき仏師に会ひ給ふとも、なほ斧のつまづきあるべし。たとひよき絵師に会ひ給ふとも、いかでか筆のあやまちなからん。たゞ大きならん鏡を仏の御前に懸けて、その映り給へらん影を礼し奉り給へ。かけるにもあらず造れるにもあらずして、三身具足し給はん。そのかたちを見るは応身の躰なり。その影をうかゞふは化身の相なり。その空しき事を観ずるは法身の理なり。功徳のすぐれたる事、これに過ぎたるはなかるべし」と申しき。御門〔は〕御夢さめ給ひて、如来の御願に応じ給ふ事を喜び給ひて、大きなる鏡を仏の前に懸けて、五百人の僧を請じて供養し奉り給ひき。真実の功徳と覚え侍りし事なり。この頃もこの思ひをなしてする人侍らば、いかにめでたき事にか侍らん。四年と申しし三月に道昭和尚と申しし人の室の内ににはかに光満ちて香はしき事限りなし。道昭、弟子を呼びて、「この光を見るや」と問ひしに、弟子、見ゆる由を答へしかば、道昭「ものな言ひそ」と言ひし程に、室より光出でゝ寺の庭に廻りて、やゝ久しくして、その光、西をさして行き去りて後、道昭縄床に端坐して、命終りにしかば、弟子ども火をもちて葬りて、その骨を取ら〔せ〕んとせしに、にはかに風吹きて、灰だにもなく撒き失ひてき。日本に火葬はこれになん始まり侍りし。五年と申しし正月に不比等中納言になり給ひて、やがてその日、大納言になり給ひにき。その月とぞ覚え侍る。役の行者、伊豆国より召し返されて、京に入りて後、空へ飛び上りて、わが身は草座に居、母の尼をば鉢に乗せて、唐土へ渡り侍りにき。さりながらも本所を忘れずして、三年に一度、この葛城山と富士の峰へとは来たり給ふなり。時々は会ひ申し侍り。唐土にては第三の仙人にておはする由ぞ語り給ふ。二月丁未の日、釈奠は始まると承り侍りき。三月二十一日に対馬より初めて銀を参らせたりしかば、大宝元年と年号を申しき。其の後より年号はあひ続きて今日まで絶えず侍るにこそ。二年と申しし七月よりぞ、御子達馬に乗りて九重の内に出で入り給ふ事は止まりにし。四年と申しし五月五日、大極殿の西の楼の上に慶雲見えしかば、年号を慶雲とかへられにき。二年と申ししに、世の中の心地おこりて煩ふひと多かりしかば、追儺といふ事は始まれりしなり。