次の御門、用明天皇と申しき。欽明天皇の第四の御子。御母、大臣蘇我宿禰稲目の女、妃堅塩姫。乙巳の年九月五日、位に即き給ふ。世を知り給ふ事、二年。位に即き給ひて明くる年、聖徳太子、父の御門を相し奉りて、「御命ことのほかに短く見えさせ給へり。政をよくすなほにし給ふべし」と申し給ひき。かくて、次の年の四月に、父御門、御心地例ならずおはせしに、太子夜昼つきそひ奉りて、声だもえせず祈り奉り給ひき。御門、大臣以下「三宝を崇め奉らん。いかゞあるべき」と仰せられあはせ給ひしに、守屋は「あるべき事にも侍らず。わが国の神を背きて、いかでか異国の神をば崇むべき」と申しき。蘇我の大臣は「たゞ仰せ言に従ひて崇め奉らん」と申しき。御門、蘇我の大臣の言に従ひ給ひて、法師を内裏へ召し入れられしかば、太子〔の〕大きに喜び給ひて、蘇我の大臣手をとり〔て〕、涙を流し、「三宝の妙理を人知る事なくして、みだりがはしく用ひ奉らざるに、大臣、仏法を信じ奉る、いといとかしこき事なり」と宣ひしを、守屋、大きに怒りて、腹立ちにき。太子、人々に宣はく、「守屋、因果を知らずして今滅びなんとす。悲しき事なり」と宣ひしを、人ありて守屋に告げ聞かせしかば、守屋いよいよ怒りをなして兵を集め、様々の蠱業どもをしき。この事聞えて、太子の、舎人を遣して、守屋に片寄れる人々を殺させ給ひし程に、四月九日御門亡せ〔させ〕給ひにき。七月になりて、太子、蘇我の大臣もろともに軍をおこして、守屋と戦ひ給ふ。守屋が方の軍数を知らざりしかば、太子の御方の軍怖ぢ恐れて、三度まで退きかへりき。その時に太子大誓願を起し、白膠の木をとりて四天王を刻み奉りて、頂きの上に置き奉りて、「今放つところの矢は四天王の放ち給ふところなり」と宣はせて、舎人をして射させしめ給ひしかば、その矢守屋が胸に当たりて、たちどころに命を失ひつ。秦川勝をして首を切ら〔せ〕しめ給ふ。守屋が妹は、蘇我の大臣の妻にて侍りしかば、その妻の謀にて、守屋は討ちとられぬるなりとぞ、その時の人は申しあへりし。さてこの守屋を射殺して侍りし舎人をば、赤檮とぞ申し侍りし。水田一万頃をなん賜はせし。かくて今年天王寺をば造り始められしなり。