水鏡 - 第20代 允恭天皇

 次の御門、允恭天皇と申しき。仁徳天皇第四の御子。御母、皇后磐之媛なり。壬子の年、十二月に位に即き給ふ。御年三十九。世を知り給ふ事、四十二年なり。兄の御門亡せ給ひて後、大臣を始めて、位にはこの君こそ即き給ふべけれとて、璽の箱を奉りしかども受け取り給はずして、「我が身久しく病に沈めり。公の位はおろかなる身にて保つべきことならず」と宣ひしを、大臣以下なほすゝめ奉りて、「帝王の御位の、空しくて久しかるべきにあらず」と、たびたび申ししかども、なほ聞こし召さずして、正月に兄御門亡せおはしまして、明くる年の十二月まで御門おはしまさでありしを、御乳母にておはしましゝ人の、水をとりて御うがひを奉り給ひしついでに、「皇子はなど位に即き給はで年月をば過させ給ふにか侍る。大臣より始めて、世の中の嘆きに侍るめり。人々の申すに従ひて位に即かせ給へかし」と申し給ふを、なほ聞こし召さで、うち後向き給ひて、ものも宣はざりしかば、この御うがひを持ちて、さりとも、とかく仰せらるゝこともやと待ち居侍りしほどに、十二月のことにていと寒かりしに、久しくなりにしかば、御うがひも氷りて持ち給へる手も冷えとほりて、すでに死に入り給へりしを、皇子見驚き給ひて、抱き助けて、「位を継ぐことは極りなき大事なれば、今まで受け取らぬことにて侍れども、かく宣ひあひたることなれば、あながちに逃れ侍るべきことにあらず」 三年と申しし正月に新羅へ医師を召しに遣はしたりしかば、八月に参りたりき。御門の御病をつくろはさせ給ひしに、その験ありて、御病癒えさせおはしましにしかば、さまざまの祿どもなど賜はせて帰しつかはしてき。七年と申しし十二月に、御遊びありしに、御門琴を弾き給ふを、后聞き愛で奉りて、舞ひて、うち居給ひし折、「あはれ、姫御をまゐらせばや」と申し給ひしを、御門、「姫御とは誰がことにか」と問ひ申させ給ひしを、御琴のめでたさに、我にもあらず申し給へりけることにや侍りけん。さりながらも申し出し給ひぬることなれば、隠し給ふべきならで、「わが弟に侍る弟姫となん申す。色、容貌なん世に又並ぶ類侍らず。衣の上、光り通り輝き侍り。世の人はされば衣通姫とぞ申す」御門、これを聞こし召して、「それ奉り給へ」と、后を責め申させ給ひしかども、ともかくも御返り事も申し給はざりしかば、御使を遣はして七度まで召しゝかども参り給はざりしかば、又御使庭にひれ伏して、七日までつやつやとものを食はざりしを、御使のいふかひなく死なんことのあさましさに、弟姫内へ参り給ひにき。御門喜び給ふ事限りなくて、ときめき給ふさま〔に〕並ぶべき人なかりき。このことを姉后やすからぬ事にし給ひしかば、宮を別に造りてぞ据ゑ奉り給へりし。四十二年おはしましゝに、御門亡せ給ひしにを、新羅より年毎のことなれば、船八十に様々のもの積みて、楽人八十人あひ添へて奉りたりしに、御門亡せ給ひにけりと聞きて、泣き悲しむこと限りなし。難波の津より京まで、この貢物を持て続け奉りおきて帰りにき。この後はわづかに船二などをぞ奉りし。又、怠る年々も侍りき。