次の御門、履中天皇と申しき。仁徳天皇第一の御子。御母、皇后磐之媛なり。仁徳天皇三十一年癸卯に東宮に立ち給ふ。御年五歳。庚子の年二月一日、位に即き給ふ。御年六十二。世を保ち給ふ事六年。父御門亡せおはしまして後、いまだ位に即き給はざりしほどに、葦田の宿禰のむすめ黒媛といひし人を、后とせんと思して、御弟の住吉仲皇子を遣はして、その日おはすべきよし仰せられしに、この皇子わが名を隠して、東宮のおはするさまにもてなして、この姫君に親しきさまになんなりにける。さて持ちたりつる鈴を忘れて帰りにけり。その次の夜、東宮、姫君のもとへおはしたるに、居給へる傍らに、鈴のありければ、怪しく思して、姫君に問ひ奉り給ひければ、「これこそは昨夜持ておはしたりし鈴よ」と宣ふに、東宮、われと名乗りて、皇子の近づき給ひにけるにこそと思して、帰り給ひにけり。皇子、この事を東宮聞き給ひぬらん。わが身平らかならんこと難かるべしとおもほして、東宮を傾け奉らんと謀りて、兵をおこして、宮を囲み給ひしを、大臣たち東宮に、かゝる事侍りと告げ奉りしに、いふかひなく酔ひ給ひて、おどろき給はざりしかば、大臣たち、この東宮を馬にかき乗せ奉りて、逃げ侍りにき。これは津の国の難波の宮なり。東宮、大和の国におはして、酔ひさめ給ひて、「これはいづれのところぞ」と問ひ給ひしかば、大臣たち、事のありつるさまを申し給ひき。さて、石上の宮におはし着きたりしに、又の御弟に瑞歯皇子と申しし人急ぎ参り給へりしを、疑ひ給ひて、会ひ給はざりしかば、この皇子、「われにおきてはさらに同じ心に侍らず」と申し給ひしかば、「しからば、かの住吉の仲皇子を殺してのちに来たるべし」と宣はせしかば、この瑞歯の皇子、すなはち難波に帰りて、住吉の仲皇子に近く使ひ給ひし人を語らひて、「わが言はん事に従ひたらば、われ位を保たん時、汝を大臣になさん」と宣ひしかば、「いかにも仰せに従ふべし」と申ししかば、多くものどもを賜ひて、「しからば汝が主を殺して、われに得さすべし」と宣ふに、そのことに従ひて、主の皇子の厠におはするを矛を以て刺し殺してき。瑞歯の皇子、その人を相具して参りて、このよしを申し給ふに、 東宮の宣はく、「この人わがために忠あれども、おのれが主を殺しつれば、うるはしき心にあらず。されども大臣の位にのぼせさせ給ひて、今日大臣と酒盛りせん」と宣はせて、顔隠るゝほどの大きなる盃にて、東宮まづ飲み給ふ。次に瑞歯の皇子飲み給ふ。次に大臣飲む折に、太刀を抜きて首を斬り給ひてき。さて、次の年、位に即き給ひて後、その黒媛をば、后に立て奉らせ給ひしなり。五年九月に、御門淡路の国におはして、狩りし給ひしに、空に風の音に似て声する物ありしほどに、にはかに人走り参りて、后亡せ給ひぬるよし申ししこそ、いとあへなく侍りしか。