次の御門垂仁天皇と申しき。崇神天皇第二の御子。御母、皇太后御間城姫なり。崇神天皇四十八年辛未四月に御夢の告げありて、東宮に立て奉り給ひき。御年二十二。壬辰の年正月三日、位に即き給ふ。御年四十三。世を知らせ給ふ事九十九年なり。四年と申ししに、后の兄、よき隙を窺ひて后に申し給ふやう、「兄と夫と誰をか心ざし深く思ひ給ふ」と申し給ふに、后何とも思さで、「兄をこそは思ひまし奉れ」と宣ふを聞きて、この御兄〔の〕宣はく、「しからば夫は、若く色衰へず盛りなるほどなり。世の中に、かたちよく、われもわれもと思ふ人こそ多かる事にて侍れ。我、位に即きなば、この世におはせんほどは、世の中を御心にまかせ奉るべし。御門を失ひ奉り給へ」とて、剣をとりて后に奉り給ひつ。后あさましく恐ろしく思せど、かく言ひかけられなん事、逃るべき方もなくて、常に御衣の中に剣を隠して隙を窺ひ給ふに、明くる年の十月に、御門、后の御膝を枕にして昼御殿籠りたりしに、后、この事たゞ今にこそと思しゝに、おのづから涙下りて御門の御顔にかゝりしかば、御門はおどろき給ひて宣ふやう、「われ、今夢に錦の色の小蛇、わが首を纒ふと見つ。又、大きなる雨、后の方より降りきてわが顔に注ぐと見つ。いかなることにか」と仰せられしに、后え隠し果て給はで、震ひ怖ぢ怖れ給ひて、涙にむせびてありのまゝの事を申し給ふを、御門聞こしめして、「この事、后の御咎にあらず」と仰せられながら、兄の王、又、后をも失はせ給ひにき。ゆゝしくあさましかりし事に侍りき。七年と申ししにぞ、すまひは始まり侍りし。十五年と申ししに、丹波国に住み給ひし皇子の御女五人おはしき。御門これを皆参らすべき由、仰せ言ありしかば、やがて奉り給へりしに、おのおのときめかせ給ひしに、中の弟のおはせし、容貌いと醜くなんおはしければ、本の国へ返し遣はしゝほどに、桂川渡りて心憂しとや思しけん、車より落ちてやがてはかなくなり給ひき。さてそれよりかしこをおちくにと申ししを、この頃は、乙訓とぞ人は申すなる。その年の八月〔に〕、星の雨の如くにて降りしをこそ見侍りしか。あさましかりし事に侍り〔し〕。二十五年と申ししに太神宮は初めて伊勢国におはしましゝなり。これよりさきに天降りおはしましたりしかども、所々におはしまして、伊勢の宮に遷りおはしますことは、天照御神の御教へにて、この年ありしなり。二十八年と申ししに御門の御弟の御子亡せ給ひにき。そのほどの世の習ひにて、近く仕うまつる人々を、生きながら御墓に籠められにけり。この人々久しく死なずして、朝夕に泣き悲しぶを、御門聞しめして、仰せらるゝやうは、「生きたる人をもちて詞ぬるに従へん事は、古より伝はれる事なれども、我このことを見聞くに悲しき事限りなし。今よりはこのこと長く止むべし」と宣ひて、その後は、土師の氏の人、土にて人形、けものゝ形などを作りてなん、人の代りに籠め侍りし。朝廷これを喜びて、土師といふ姓を賜はせしなり。この頃大江と申す姓は、その土師の氏の末なるべし。八十二年、このほどとぞ承りし。祗園精舎は荒れ果てゝ、人もなくて九十年ばかり過ぎにけるを、たう利天王の第二の御子を下して、人王となして、又造り磨かると承りき。仏などのおはしましゝにもまさりてめでたくぞ造られにける。九三年と申ししにぞ、後漢の明帝の御夢に、黄金の人来たると御覧じて、其の明くる年天竺より初めて仏法唐土へ伝はりにし。