水鏡 - 第55代 仁明天皇

 次の御門、仁明天皇と申しき。 嵯峨天皇の第二の御子。 御母、太皇大后橘嘉智子なり。 弘仁十四年癸卯四月二十五日、東宮に立ち給ふ。 御年十五。 天長十年癸丑三月六日、位に即き給ふ。 御年二十四。 世を知り給ふ事、十七年。 御才賢く、管絃の方もいみじくおはしましき。 すべて御身の能、古への御門にもすぐれ給ひて、医師の方などさへ並び奉る人なかりしなり。 今年、慈覚大師、如法経を書き給ひき。 承和元年正月二日、淳和院へ朝覲〔の〕行幸侍りき。 弘法大師の申し行ひ給ひしによりて、今年より後七日の御修法始まりしなり。 三月二十一日に、弘法大師、定に入り給ひにき。 同四年六月十七日、慈覚大師、唐土へ渡り給ひき。 同五年十二月十九日に仏名は始まりしなり。 この月に、小野篁を隠岐国へ流し遣はしき。 其の故は、度々唐土へ遣はさんとせしかども、身に病侍る由など申してまからざりしにあはせて、唐土へ遣はしける文の言葉の続きにひかされて、世の為に良からぬ事どもを書きたりけるを、嵯峨の法皇御覧じて、大きに怒り給ひて流し遣はさせ給ひしなり。 同六年正月にぞ篁は隠岐へまかりし。
  わたのはら八十島かけてこぎいでぬと人には告げよ海士のつり舟
とは、この時に詠み侍りしなり。 同七年四月八日、初めて潅仏は行はれしなり。 六月に小野篁召し返されて、いまだ位もなかりしかば、黄なる上の衣を着てぞ京へは入れりし。 同九年七月十五日に、嵯峨法皇亡せさせ給ひにき。 当代の御父におはします。 十七日、平城天皇の御子に阿保親王と申しし人、嵯峨の大后の御許へ御消息を奉りて申し給ふやう、「東宮の帯刀健岑と申す者、詣で来て、『太上法皇すでに亡せさせ給ひぬ。世の中の乱れ出で来侍りなんず。東宮を東国へ渡し奉らん』と申す」由を告げ申し給ひしかば、忠仁公の、中納言と申しておはせしを、后呼び申させ給ひて、阿保親王の文を御門に奉り給ひき。 この事、建岑と但馬権守橘逸勢と謀れりける事にて、東宮は知り給はざりけり。 二十四日に事顕れて、二十五日に但馬権守を伊豆国へ遣はし、建岑を隠岐へ遣はす。 又、中納言吉野、宰相秋津など流されにき。 此の但馬権守と申すは、世の人、きせいとぞ申す。 神になりておはすめり。 東宮恐れ怖ぢ給ひて「太子を逃れん」と申し給ひしかば、御門「この事は建岑ひとりが思ひ立ちつる事なり。東宮の御誤りにあらず。とかく思す事なかれ」とて、たゞもとのやうにておはしまさせき。 東宮と申すは淳和天皇の御子なり。 御門には御従弟にておはしましゝなり。 今年、十六にぞなり給ひし。 八月三日、御門、冷泉院に行幸ありて涼ませ給ひしに、東宮もやがて参らせ給ひたりしに、何方よりともなくて文を投げ入れたりき。 建岑が東宮を教へ奉りたることゞもありしかば、俄に東宮の宮司、帯刀・御許人など百余人捕へられて、東宮をば淳和院へ帰し奉りて、四日、当代の第一の親王を東宮に立て申し給ひき。 文徳天皇これにおはします。 嘉祥元年三月二十六日に慈覚大師も唐土より帰り給ふ。 唐土におはせし間、悪王に遭ひ奉りて、悲しき目どもを見給へりしなり。 仏、経を焼き失ひ、尼法師を還俗せさせしめ給ひし折に会ひて、この大師も男になりて、頭を包みておはせしなり。 同三年三月に、御門御病重くならせ給ひて、御髪下して中一日ありて、亡せおはしましてきとぞ。  さてこの申す事は、見聞きし事ばかりなれば、大切なることも多く落ち侍りぬらん。 これはたゞ大様の有様を思し合はせさせんと思ひ給ふるばかりなり。 この申し続けつる事ども、暁の眠りの程の夢に何処か違ひ侍りたる。 いづらは愛でたかりし世の中、いづらは悪かりし事。 たとひ桓武天皇の御世より生ける人ありとも、我身にて思ふに、長き夢見たる人にてぞ侍らん。 ましてこの頃の人、命長からん定、七八十なり。 とてもかくてもありぬべし。 おほかた世の中の減劫の末、仏の滅後に小国の中に生れて、見聞く事の悪からんこそまことの理なれ』とて、もとの道方へ帰りまかりにき。 今、かく語り申すも、なほ仙人の申しし事、十が一をぞ申すらん。 その中になほ僻言多く、世の人の皆知り、をこがましきことゞもにてこそ侍らめ。 いたづらに寝を寝んよりは、御目をも覚し奉らんとて、あさましかりし事の有様を語り申すなり。 御心の外に散らし給ふな」とて、夜明け方になりしかば、又所作などして、「京へ必ずおはせ」と契りてまかり出でにき。 その後、行き方を知らず。 尋ね来たる事もなし。 本意なき事、限りなし。 心より外にはと言ひしかども、此の事を消ちて止まん、口惜しくて書きつけ侍るなり。 世あがり、才かしこかりし人の大鏡などいひて書き置きたるには似ずして、言葉卑しく、僻言多うして見どころなく、文字落ち散りて、見ん人に謗り欺かれん事、疑ひなかるべし。 紫式部が源氏など書きて侍るさまは、たゞ人の為業とやは見ゆる。 されどもその時には日本〔書〕紀の御局などつけて笑ひけりとこそは、やがて〔紫〕式部が日記には書きて侍るめれ。 ましてこの世の人の口、かねて推し量られてかたはらいたく覚ゆれども、人の為とも思ひ侍らず。 たゞ若くより、かやうの事の心にしみならひて、行ひのひまにも捨てがたければ、我ひとり見んとて書きつけ侍りぬ。 大鏡の巻も凡夫の為業なれば、仏の大円鏡智の鏡にはよも侍らじ。 これも、もし大鏡に思ひよそへば、そのかたち正しく見えずとも、などか水鏡の程は侍らざらんとてなん。
 終