次の御門、平城天皇と申しき。 桓武天皇の第一の御子。 御母、内大臣藤原良継の女、皇后乙牟漏なり。 延暦元年十一月二十五日に東宮に立ち給ふ。 御年十二。 早良親王の御代りなり。 同六年五月十八日に御元服ありき。 大同元年五月二十八日に位に即き給ふ。 御年三十二。 世を知り給ふ事四年なり。 御心敏く、御才賢くおはしましき。 十一月に天台の受戒始まりき。 今年、崇道天皇の御為に、山科に八嶋寺を建て給ひて、諸国の正税の上分を奉りて祈り鎮め奉り給ひき。 御門位に即き給ひし日、御弟の嵯峨の御門を東宮に立て申させ給ひたりしを、御門棄て奉らんの御志ありしに、冬嗣の、東宮の傅にておはせしが、「かゝる事なん」と告げ申し給ひしかば、東宮怖ぢ恐り給ひて、「いかゞせんずる」と宣はせしかば、冬嗣「この事、今日明日既に侍るべき事にこそ。人の力の及ぶべきにあらず。父御門の陵に祈り申し給ふべきなり」と申し給ひしかば、東宮、日の御装束奉りて、庭に下りて、遥かに柏原の方を拝し〔て〕、雨雫と泣き愁へ申させ給ひしに、俄かに煙世の中に満ちて、夜のごとくになりにしかば、御門驚きをのゝき給ひて御占ありしに、柏原の御祟と占ひ申ししかば、御門大きに驚き給ひて、この事を陵に悔い申させ給ひしかば、二日ありて煙やうやう失せにき。 同二年十月二十二日に弘法大師唐土より帰り給へりき。 東寺の仏法これより伝はれりしなり。 この大師あらはに権者とふるまひ給ひたりき。 御手ならびなく書かせ給ひしかば、唐土にても、御殿の壁の二間侍るなるに、羲之といひし手かきの物を書きたりけるが、年久しくなりて崩れにければ、又改められて後、大師に書き給へと唐土の御門申し給ひければ、五つの筆を、御口、左右の御足・手にとりて、壁に飛びつきて一度に五行になん書き給ひける。 この国に帰り給ひて南門の額は書き給ひしぞかし。 さて又、応天門の額を書かせ給ひしに、上のまろなる点を忘れ給ひて、門にうちて後、見つけ給ひて驚きて、筆をぬらして投げ上げ給ひしかば、その所につきにき。 見る人、手を打ちあざむ事限りなく侍りき。 たゞ空に仰ぎて文字を書き給ひしかば、その文字現はれにき。 これのみならず、事にふれて、かやうの事多く侍れど、たゞ今思ひ出さるゝ事を片端申すなり。 十一月に中務卿伊与親王、御門を傾け奉らんと謀り奉るといふ事聞えて、母の夫人ともに河原寺の北なりし所に籠められ給へりしに、みづから毒を食ひて亡せ給ひにき。 その親王管絃の方すぐれ給へりき。 その後、世の中、心地おこりて、大嘗会もとゞまりにき。 同三年、慈覚大師、生年十五にて比叡の山に登り給ひて、伝教大師の御弟子になり給ひしなり。 もとは下野の国の人におはす。 いまだ下野におはせしに、伝教大師を夢に見奉りて、明け暮れ、いかで大師の御もとへ参らんと思ひ給ひしに、つひに人に付きて登り給ひて、山に登りて見奉り給ひしに、夢の御姿にいさゝか違ひ給はざりき。 同四年に、御門春の頃より例ならず思されて、怠り給はざりしかば、御位を御弟の東宮に譲り奉りて、太上天皇と申しき。 御子の高岳親王を東宮に立て申し給ふ。