次の御門、光仁天皇と申しき。 天智天皇の御子に施基皇子と申し〔し〕、第六子におはす。 母は、贈太政大臣紀諸人の女、贈皇后橡姫なり。 神護景雲四年八月四日、称徳天皇亡せさせおはしましにしかば、位を継ぎ給ふべき人もなくて、大臣以下各々この事を定め給ひしに、天武天皇の御子に長親王と申しし人の子に大納言文屋浄三と申す人を位に即け奉らんと申す人々もありき。 又、白壁王とてこの御門のおはしましゝを即け奉るべしと申す人々もありしかども、なほ浄三をと申す人のみ強くてすでに即き給ふべきにてありしに、この浄三「我が身その器量に叶はず」とあながちに申し給ひしかば、その弟の宰相大市と申ししを、さらば即け申さんと申すに、大市うけひき給ひしかば、すでに宣命を読むべきになりて、百川・永手・良継、この人々、心をひとつにて目をくはせて、密かに白壁王を太子と定め申す由の宣命をつくりて、宣命使を語らひて、大市の宣命をば巻き隠してこの宣命を読むべき由を言ひしかば、宣命使庭に立ちて読むを聞くに、「事、俄かにあるによりて、諸臣たちはからく、白壁王は諸王の中に年たけ給へり。又、先帝の功あるゆゑに太子と定め奉る」といふ由を読むを聞きて、この大市をたてんと言ひつる人々あさましく思ひて、とかくいふべき方もなくてありし程に、百川やがて兵を催して白壁王を迎へ奉りて、御門と定め奉りてき。 この御門の位に即き給ふ事は、ひとへに百川のはからひ給へりしなり。 二十一日に道鏡をば下野国へ流しつかはす。 大納言弓削清人を土佐へ流しつかはす。 この清人は道鏡が弟なり。 十一月一日に、位に即き給ふ。 御年六十二。 世を知り給ふ事、十二年なり。 粉河寺は今年建てられしなり。 宝亀三年に御門、井上の后と博奕し給ふとて戯れ給ひて、「われ負けなば、盛りならん男を奉らん。后負け給ひなば、色・容並びなからん女を得させ給へ」と宣ひて打ち給ひしに、御門負け給ひにき。 后まめやかに御門を責め申し給ふ。 御門、戯れとこそ思しつるに、事苦りて思ひわづらひ給ふ程に、百川この事を聞きて、「山部親王を后に奉り給へ」と御門にすゝめ申しき。 この山部親王と申すは桓武天皇なり。 さて、百川、又、親王の御もとへ参りて、「御門この事を申し給はんずらん。あなかしこ否び申し給ふな。思ふやうありて申し侍るなり」と申しし程に、御門、親王を呼び奉り給ひて、「かゝる事なんある。后の御許へおはせ」と申し給ひしに、親王恐れ畏まりて「あるべき事に侍らず」と申してまかり出で給ひしを、たびたび強ひ申し給ひしかどもなほ承り給はざりしかば、御門、「孝といふは父のいふ事に従ふなり。われ年老いて力堪へず。速やかに后の御許へ参り給へ」と責め給ひしかば、え逃れ給はずして、つひに后の御許へ参り給ひにき。 さてこの后、親王の御事をいみじきものにし奉り給ひし、いとけしからず侍りし事なり。 この后御年五十六になり給ひき。 この御腹の他戸の親王は御門の第四の御子にて、御年などもいまだいとけなくおはしまして、今年は十二にぞなり給ひしかども、この后の御腹にておはせしかば、兄たちをおき奉りて去年の正月に東宮に立ち給ひしぞかし。 后の御年もたけ、東宮の御母〔など〕にて、いみじく重々しくおはすべかりしに、この山部親王、御継子にて御年などもことのほかに合ひ給はず。 今年三十六になり給ひしを、又なきものと思ひ申し給へりし、いと見苦しくこそ侍りしか。 常にこの親王をのみ呼び奉り給ひて、御門を疎くのみもてなし奉り給へば、御門、恥ぢ恨み給ふ御心やうやう出で来けり。 百川この程の事どもをうかゞひ見るに、后蠱業をして御井に入れさせ給ひき。 御門をとく失ひ奉りて、我が御子の東宮を位に即け奉らんといふ事どもなり。 その井に入りたる物を、ある人とりて宮の内にもて扱ひしかば、此の事皆人知りにき。 百川、御門に「此の事すでに顕れにたり。又、后の宮の人八人、この頃よこざまなる事をのみ仕うまつりて、世の人堪ふべからず。人の妻を奪ひて、やがてその男の前にてゆゝしきわざをして見せ、又、その男を殺し、かやう事申し尽くすべからず。この八人を捕へさせしめて人の憂へを鎮めん」と申ししかば、御門、申ししまゝに許し給ひしかば、百川兵を遣はして召し捕りし程に、その八人を打ち殺してき。 その使、帰りてこの由を申すに、后、御門のおはしますところへ怒りておはして、「老朽ちはおのれが老いぼれたるをば知らずして、我が宮人どもをばいかでか殺さするぞ」と罵り申し給ひしかば、百川この事を聞きて「あさましく侍る事なり。后をしばし縫殿寮に渡し奉りてこらしめ奉らん。又、東宮も悪しき御心のみおはす。世の為いといと不便に侍る」と申ししかば、御門「よからんさまに行ふべし」と宣ひしかば、三月四日、后の位をとり奉りて、出で給ふべき由、啓せしかども、后のさらに出で給はずして、しのびやかに巫どもを召し寄せて様々の物どもを賜はせて、御門を呪咀し奉り給へりしを、百川聞きつけて、巫を尋ね召さしめしに、巫逃げ失せ〔に〕しかば、その巫の親しかりしものを召して、「さらに恐りをなすべからず。ありのまゝにこの事を申さば、我かならず位を申し授くべし」といひしかば、すなはちこの由をかの巫に告げ言ひしかば、巫謀られて申していはく、「君をあやまち奉らんと謀れる罪は、逃れ難かるべき事なり。后宮、われらを召して様々の物を賜はせたりしかども、如何にすべしとも覚え侍らで、たゞ御門の御為に、かへりて寺々に誦経にして悪しき心つゆ起さずなり侍りにき」と言ひき。 この由を百川つぶさに御門に申ししかば、その巫どもを召し寄せて重ねて問はしめさせ給ひしに、各々皆落ち伏しにき。 御門この事を聞こし召して涙を流し給ひて、「我、后の為にいさゝかもおろかなる心なかりつるに、いま此の事あり。如何にすべき事ぞ」と仰せ言ありしかば、百川申していはく「この事、世の中の人皆聞き侍りにたり。いかでかさてはおはしますべき」と申ししかば、御門「まことにいかでか〔は〕たゞもあらん」と宣はせて、后の御封など皆停め給へりしかども、后さらに憚り給ふけしきなくて、たゞ御門を様々のあさましき言葉にてみだりがはしく罵り申し給ふ事よりほかになし。 百川、「東宮〔を〕もしばし退け奉りて心を鎮めたてまつらん」と申ししかば、御門許し給ひき。 百川偽りて宣命を作りて人々をもよほして、太政官にして宣命を読ましむ。 皇后及び皇太子を放ち追ひ奉るべき由なり。 この事をある人御門に申すに、御門大きに驚き給ひて、百川を召して「后なほ懲り給はず。しばし東宮を退けんとこそ申し乞ひつるに、如何にかゝる事はありけるぞ」と宣ふに、百川申していはく「退くとは永く退くる名なり。母罪あり。子驕れり。まことに放ち追はんに足れる事なり」と少しも私あるけしきなく、ひとへに世の為と思ひたる心、容貌に顕れて見えしかば、御門かへりて百川に怖ぢ給ひて、ともかくも宣はせずして内々に歎き悲しび給ふ事かぎりなかりき。 これも百川の謀計にて、位に即き給へりし功労の量りもなかりしかば、たゞ申すまゝにておはしましゝなり。 同四年正月十四日に山部親王の中務卿と申しておはせし、東宮に立ち給ふ。 この事ひとへに百川の力なり。 其の故は先づ等定と申しし僧を、百川、梵天・帝釈を造り奉りて行ひ奉りき。 大臣以下、御門に申していはく、「儲けの君はしばしもおはせずしてあるべき事ならず。速やかに立て奉り給へ」と申ししかば、御門「誰をか立つべき」と宣はせしかば、百川進みて、第一の御子山部親王を立て申し給ふべし」と申しき。 御門仰せらるゝやう「山部は無礼の親王なり。我如何に言ふとも、いかで后をば犯すべきぞ」と宣はせしを、百川申していはく「この仰せ言いはれなく侍り。父の言ふ事を違へざるを孝子とはいふなりと仰せ言ありしかばこそ、親王は仰せに従ひ給ひしか。初め勧め給ふも御門におはします。後に嫌ひ給ふも御門なり。如何にかくは仰せ言あるぞ」と申すに、浜成申していはく「山部親王は〔御〕母卑しくおはす。いかでか位に即き給はん」と申ししかば、御門「まことにさる事なり。酒人内親王を立て申さん」と宣ひき。 浜成又申していはく「第二の御子稗田親王、御母卑しからず。この親王こそ立ち給ふべけれ」と申ししを、百川目を怒らかし太刀を引きくつろげて、浜成を罵りていはく、「位に即き給ふ人、さらに母の卑しき尊きを選ぶべからず。山部親王は御心めでたく、世の人も皆従ひ奉る心あり。浜成申す事道理にあらず。我、命をも惜しみ侍らず。又、二心なし。たゞ早く御門の御ことはりをかうぶり侍らん」と責め申ししかば、御門ともかくも宣はで立ちて内へ入り給ひにき。 百川この事を承り切らんとて、歯をくひしばりて、少しも眠らずして、四十余日立てりき。 御門、百川が心の強く動がざる事を御覧じて、「さらばとく山部親王の立つべきにこそ」としぶしぶに仰せ出だし給ひしを、御言葉いまだ終らざりしに、庭に下りて手を打ち喜ぶ声おびたゞしく高くして人々皆驚き騒ぎ、百川やがて官々を召して、山部親王の御許へ奉りて、太子に立て奉りにき。 御門あわたゞしく思してあきれ給へるさまにてぞおはしましゝ。 浜成、色を失ひ、朽ちたる木などのごとくに見え侍りき。 百川、君の御為に力を尽くし身を捨つる事、古もかゝる例なしと人々申しあへりき。 同六年四月二十五日、井上の后亡せ給ひにき。 現身に龍になり給ひにき。 他戸部の親王も亡せ給ひにきといふ事世に聞え侍りき。 同七年九月に、二十日ばかり、夜毎に瓦、石、土塊降りき。 つとめて見しかば、屋の上に降り積れりき。 同八年冬、雨も降らずして世の中の井の水皆絶えて、宇治川の水すでに絶えなんとする事侍りき。 十二月に百川が夢に、鎧冑を着たるもの百余人来たりて我を求むとたびたび見えき。 又、御門、東宮の御夢にもかやうに見えさせ給ひて、悩ましく思されき。 これ皆井上の后、他戸部の親王の霊と思して、御門深く憂へ給ひて、諸国の国分寺にて金剛般若を読ましめさせ給へりき。 同九年二月に他戸部の親王いまだ世におはすといふ事を、ある人御門に申しき。 御門この親王を東宮に返し立てんの御心もとより深かりしかば、人を遣はして見せしめ給ひしに、百川、御使を呼び寄せて、「汝、あなかしこまことを申す事なかれ。もし申しては国は傾きなんずるぞ。安く生けらんものと思ふな」と言ひしかば、この御使怖ぢわなゝきながら行きて見るに、亡せ給ひにきと聞え給ひし他戸部の親王はいさゝかのつゝがもなくておはす〔る〕ものか。 あさましく思ひながらこの〔御〕使帰り参りて百川に怖ぢ恐りて「ひがごとに侍り。あらぬ人なり」と申ししを、親王の乳母、仕うまつり人集まり参りて御使とかたみに争ひ申すに、御使誓言を立てゝ、もし偽れる事を申さば二つの目抜け落ち侍るべし」と申ししかば、人皆ひがごとゝ思ひて親王を追ひ棄て申して後いくばくの程もなくて、その御使の目二つながら抜け落ち侍りにし、顕著にあさましく侍りし事なり。 十月に東宮、伊勢大神宮へ参り給ひぬ。 過ぎぬる春の頃、御病重くて様々にせさせ給ひしかども、その験なかりき。 その時の御願にて怠り給ひて後、参らせ給ひしなり。 今年とぞ覚え侍る、伝教大師、大安寺に行表と申しし僧の弟子になりて法師になり給ひしは。 年十二になり給ふとぞ承りし。 もと近江の国の人におはしき。 同十年五月に安倍の仲麻呂、唐土にて亡せにけりと聞え侍りき。 家乏しくして後の事など叶はずと、御門聞こし召して、絹百疋、綿三百屯をなん賜はせし。 この人なり、唐土にて月の出づるを見て、この国の方を思ひ出して「三笠の山に出でし月かも」と詠めりき。 七月五日、ある巫、百川に「この月の九日、物忌かたくすべし。あなかしこ」と言ひしかば、百川常に夢見騒がしき事を思ひあはせて、巫の言を頼みて、九日になりて戸を鎖し固めて籠り居たる程に、秦隆といふ僧は、年頃百川が祈りをしてあひ頼めりしものなり。 その僧の夢にも、井上の后を殺すによりて、百川が首をきる人ありと見て驚きさめて、すなはち百川が許へ走り行きてこの事を告げんとするに、百川、巫の教に従ひてこの秦隆にあはず。 秦隆爪弾きをして帰りにき。 この日、百川にはかに亡せにき。 年三十八になんなりし。 私の心なく世の為とてこそは申し行へりしかども、つひにかく又なりにし。 凡夫の心は如何に侍るべきにか。 御門「わが位を保てる事はひとへに百川が力なり。永くその形容をも見るまじき事」と宣ひ続けて泣き歎かせ給ふ事限りなし。〔さらなり。〕又、東宮の御歎き思しやるべし。御容貌も変る程にならせ給ひしかば、見奉る人「如何にかくならせ給へるぞ」と申ししかば、「百川わが為に身をも惜しまず力を尽くせりき。我、させる報なし。今、図らざるに命を失ひつ。この事を思ふに、かくなれるなり」と宣ひし、まことにことはりと覚え侍りし事なり。 天応元年四月三日、御門、位を東宮に譲り奉り給ひて、太上天皇と申しき。