次の御門、天武天皇と申しき。舒明天皇の第三の御子。御母、斉明天皇なり。天智天皇の御世七年二月に東宮に立ち給ふ。癸酉の年二月二十七日に位に即き給ふ。世を知り給ふ事十五年なり。この御門、うちまかせては位に即き給ふべかりしかども、又ありがたくして即き給ひしなり。世を遁れ給ひし事、天智天皇の御事の中に申し侍りぬ。天智天皇、十二月三日亡せさせ給ひにしかば、同じき五日、大友皇子位を継ぎ給ひて、明くる年の五月に、なほこの御門を疑ひ奉りて、家出して吉野の宮に入り籠らせ給へりしを、左右の大臣もろともに兵〔を〕おこして、吉野の宮を囲み奉らんと謀りし程に、この事洩れ聞えにき。美濃尾張の国に、天智天皇の陵を造らん料とて、人夫をその数召すに、皆兵の具を持ちて参るべき由仰せ下さる。「この事さらに陵の事にあらず。必ず事の起り侍るべきにこそ。この宮を逃げ去り給はずば悪しかりなん」と告げ申す人あり。又「近江の京より大和の京まで所々にみな兵を置きて守らしめ侍る」など申す人もありき。大友皇子の御妻はこの御門の御女なりしかば、みそかにこの事の有様を御消息には告げ申し給へりけり。 吉野の宮には、位を譲り世を遁るゝ事は、病をつくろひ命を保たん〔ため〕とこそ思ひつるに、思はざるに我が身を失ふべからんにとりては、いかでか〔は〕うちとけてもあるべきと思して、皇子たちをひき具し奉りて、ものにも乗り給はずして東国の方へ入り給ひし途に、懸犬養大伴といひし者、会ひ奉りて、馬に乗せ奉りてき。又、妃の宮を輿に乗せ奉りて、御供には皇子二人、男ども二十余人、女十余人ぞ付き奉りたりし。その日、菟田といふ所におはし着きたりしに、猟人二十余人従ひ奉りにき。又米負せたる馬三十疋ばかり逢ひ奉りたりしを、その米を下ろし捨てゝ、徒歩にて御供にさぶらふ人をみな乗せ給ひて、夜中ばかりに伊賀の国におはし着きて、国の軍あまた従ひ奉りしを相具して、明くる日、伊勢の国におはして、天照御神を拝し奉り給ひき。国の守、五百人の軍をおこして、鈴鹿の関を固め、大友皇子、三千人の軍を率ゐて、不破の関を固む。御門、不破の宮におはして、国々の軍をおこし給ひしに、兵その数を知らず。かくて七月六日より所々にして大友皇子と戦ひ給ふ。二十一日に瀬田に攻め寄り給ひしに、大友皇子、左右の大臣あひともに橋の西に陣を張りて戦ふ。こなたかなたの軍、雲霞のごとくにして、その数を知らず。矢の下る事雨のごとし。かゝりし程に、皇子の方の軍破れて、皇子も大臣もわづかに命を逃れて山に入りにき。二十三日に皇子自ら遂に命を失ひてしかば、二十六日にぞその首を取りて不破の宮に奉り〔て〕し。二十七日に右大臣殺され、左大臣流されにき。その他の人々は、罪を被る、多く侍りき。やがてその日ぞ、軍に力を入れたる人々、官位どもを賜はせし。御門は皇子の御叔父にておはせしうへに、御舅にてもおはしましゝぞかし。方々従ひ奉り給ふべかりしを、あながちに勝にのり給ひし事の仏神も受け給はずなりにしにこそ侍めれ。八月に御門、野上の宮に遷り給ひたりしに、筑紫より足三ありし雀の朱きを奉りしかば、年号を朱雀元年とぞ申し侍りし。明くる年三月に備後国より白き雉を奉りたりしかば、朱雀といふ年号を鳳凰とぞ更へられにし。三月に川原寺にて初めて一切経を書かしめ給ひき。九年と申しし十一月に、妃の宮御病によりて、薬師寺を建てさせ給ひしなり。十三年と申ししに、御門例ならずおはしまして、東宮を初め奉りて、百官大安寺に詣でゝ、御門この寺にして法会を行はんと思す御願あるを、果たし遂げ給はずしてやみなんとす。「たとひ定業なりとも、三年の御命を延べ奉り給へ。この〔大〕願を遂げさせ奉らん」と祈り申ししに、御門〔の〕御夢に御命延び給ふよし御覧ぜられて、御病怠らせ給ひにしかば、三年の間、仏をあらはし経を写して、本意のごとく供養し奉り給ひき。十四年と申しし十月二十三日、天文のことごとくに乱れ、星の落つる事、雨のごとく侍りき。十五年と申ししに、大和の国より朱き雉を奉れりき。さて朱鳥元年と年号を更へられにき。明くる年、大友皇子の御子、父の宣はせ置きしによりて、三井寺を〔ば〕造り給ひしなり。