次の御門、顕宗天皇と申しき。飯豊天皇の同じ御腹の弟におはします。乙丑の年正月一日、位に即き給ふ。御年三十六。世を知り給ふ事、三年。御父の押羽の皇子は、安康天皇の御世三年と申ししに、安康の御弟の雄略天皇と申しし御門の、いまだ皇子にておはしましゝに、失はれ給ひしかば、その御子二人、丹波国に逃げておはしたりしに、なほ世の中を恐り給ひて、弟の君、兄の君を勧め奉りて、播磨の国へおはして、御名どもをかへて、郡の司に仕へ給ひき。さて、年月を過し給ひしほどに、弟の君、兄の君に申し給はく、「われら命逃れて、此処にて年を経にたり。命は名を顕はしてん」と宣ひしに、兄の君、「しからば、命を保たん事いと難かるべし」と宣ひしかば、又弟の君、「われらは履中天皇の御孫なり。身を苦しめて、人に使へて、馬牛を飼ふ。生ける甲斐なし。たゞ名を顕はして、命を失ひてん、いとよき事なり」と宣ひて、兄弟互に抱きつきて泣き給ふ事限りなし。兄の君、「さらば、とくわれらが名を顕はし給ひてよ」と宣ひしかば、二人相具して、郡の司の家におはして、雨垂りのもとに居給へりしかば、呼び入れ奉りて、竈の前に据ゑて、酒飲み遊びなどして、おのおの立ちて舞ふに、この弟の君、わが御身の有様を言ひ続けて舞ひ給ふを、郡の司、聞き驚きて、降りさわぎ、拝し奉りて、郡のうちの民どもを起して、にはかに宮造りして、かりそめに据ゑ奉りて、御門に、「この二人の王を迎へ奉り給へ」と申ししかば、清寧天皇喜びて、すなはち迎へ取り給ひつ。「われ子なし。位を継ぎ給ふべし」とて、兄の王を東宮に立て奉り給ひき。さて、清寧天皇亡せ給ひにしかば、東宮位に即き給ふべかりしを、御弟に譲り給ひしかども、あるべきことにあらずと申し給へりき。かくて互に位を継ぎ給はざりしかば、御妹の飯豊天皇を即け奉り給ひしほどに、その年のうちに亡せ給ひにしかば、なほ弟の王、東宮の御勧めに従ひて、位に即き給ひき。その年、三月上巳の日ぞ、始めて曲水の宴を行はせ給ひし。二年八月と申ししに、御門、御兄の東宮に申し給はく、「わが父の皇子、罪なくして、雄略天皇に失はれ給へりき。恨みの心、今に止む事なし。われ、かの御門の陵を毀ちて、その骨を砕きて捨てん」と宣ひしを、東宮申し給はく、「雄略天皇は御門におはします。わが父は御門の御子なりといへども、位に登り給はざりき。又、御門、清寧天皇の御恵を蒙り給へり。雄略天皇は清寧天皇の御父におはせずや。今、位に登り給ふ。いかでかその志を忘れ給はん。陵を破り給はん事あるべからず」と申し給ひしかば、その言に従ひ給ひき。この御時、世治まり、民安らかに侍りき。



