次の御門、応神天皇と申しき。今の八幡の宮はこの御事なり。仲哀天皇第四の御子。御母、神功皇后におはします。神功皇后の御世三年癸未に東宮に立ち給ふ。御年四歳なり。庚寅の年正月丁亥の日、位に即き給ふ。御年七十一。世を知ろしめす事四十一年なり。八年と申す四月に、〔武内の大臣を筑紫へ遣はして、事を定めまつりごたせ奉らせ給ひしに、この〕武内の大臣の〔御〕弟にておはせし人の、御門に申し給はく、「武内の大臣常に王位を心にかけ侍り。筑紫にて新羅、高麗、百済この三の国を語らひて、公を傾け奉らんとす」と、無きことを讒し申ししかば、御門、人を遣はして、この武内を討たしめ給ふに、武内嘆きて、「われ君の〔御〕ため二心なし。今、罪なくして身を失ひてんとす。心憂きことなり」と宣ふ。その時に壱岐直祖真根子といふものありき。容、武内の大臣に違はずあひ似たりき。この人、大臣に申していはく、「かまへて逃れて都へ参りて罪なきよしを奏し給へ。われ大臣にかはり奉らん」と進み出でてみづから死ぬ。武内ひそかに都に帰りて、事の有様を申し給ふに、大臣たち二人を召して、かさねて問はせ給ふに、武内罪おはせぬよし、おのづからあらはれにき。その後、御門、この武内の大臣を籠し給ひしなり。



