水鏡 - 第15代 神功皇后

 次の御門、神功皇后と申しき。開化天皇の五世の孫なり。仲哀天皇の后にておはせしなり。御母は、葛木高額媛。辛巳の年十月二日、位に即き給ひき。女帝はこの御時始まりしなり。世を保ち給ふ事六十九年。御心ばへめでたく、御容よにすぐれ給へりき。仲哀天皇の御時、八年と申ししに、筑紫にて、神、この皇后につき給ひて宣はく、「さまざまの宝多かる国あり。新羅といふ。行き向ひ給はゞ、おのづから従ひなん」と宣ひき。しかるにその事なくてやみにき。皇后いま宣はく、「御門、神の教へに従ひ給はで、世を保ち給ふ事久しからずなりぬ。いと悲しき事なり。いづれの神のたゝりをなし給へるぞ」と、七日祈り給ひしかば、神、託宣して宣はく、「伊勢国五十鈴の宮に侍る神なり」とあらはれ給ひしによりて、皇后、浦に出でさせ給ひて、御髪を海にうち入れさせ給ひて、「この事かなふべきならば、わが髪分れて二つになれ」と宣ひしに、やがて二つになりにき。 すなはちみづらに結ひ給ひて、臣下に宣はく、「軍をおこす事は国の大事なり。今このことを思ひたつ。ひとへに汝達に任す。われ女の身にして男の姿を借りて、軍をおこす。上には神の恵みを蒙り、下には汝達の助けを頼む」とて、松浦といふ河におはして祈りて宣はく、「もし西の国を得べきならば、釣りにかならず魚を得ん」とて釣り給ひしに、鮎を釣り上げ給ひにき。その後諸国に詔して船を召し、兵を集めて海を渡り給はんとて、まづ人を出して、国のありなしを見せさせ給ふに、見えぬよしを申す。又人を遣はして見せしめ給ふに、日数多く積もりて帰り参りて、「戌亥の方に山あり。雲かゝりてかすかに見え侍る」と申ししかば、皇后やがてその国に向ひ給はんとて、石をとりて御腰にさしはさみ給ひて、「事終りて帰らん日、この国にして産み奉らん」と祈り誓ひ給ひにき。この程八幡をはらみ奉らせおはしましたりしなり。仲哀天皇亡せさせおはします事は二月なり。このことは十月なれば、たゞならずおはしますとも、御門に知らせ給はぬほどにもや侍りけん。さて、十月辛丑の日ぞ新羅へ渡り給へりしに、海の中の様々の大きなる魚ども、船どもの左右に添ひて、大きなる風吹きてすみやかに至る。船に従ひて、波荒く立ちて、新羅国のうちへたゞ入りに入り来る時に、かの国の王、怖ぢ恐れて、臣下を集めて、「昔よりいまだかゝる事なし。海の水すでに国の内に満ちなんとす。運のつき終りて、国の海になりなんとするか」と嘆き悲しむほどに、軍の船海に満ちて鼓の声山を動かす。新羅の王、これを見て思はく、「これより東に神国あり。日本といふなり。その国の兵なるべし。われたちあふべからず」と思ひて、かの王進みて皇后の御船の前に参りて、「今より長く従ひ奉りて年毎に貢物を奉るべし」と申しき。皇后、その国へ入り給ひて、様々の宝の倉を封じ、国の指図文書をとり給ひき。王、様々の宝を、船八十に積みて奉る。高麗、百済といふ二の国、この事を聞きて、怖ぢ恐れて進みて従ひ奉りぬ。かくて筑紫に帰り給ひて、十二月に皇子を産み奉り給ひき。これぞ八幡の宮にはおはします。明くる年皇后京へ帰り給ひしを、御継子の御子たち思ひ給ふやう、「父御門、亡せ給ひにけり。又皇后すでに皇子を産み奉り給ひてけり。これを位に即けんとこそ謀り給ふらめ。われら兄にて、いかでか弟に従ふべき」とて、播磨の明石にて、皇后を待ち奉りて、傾け奉らんと謀り給ひしを、皇后聞き給ひてみづから皇子を抱き奉り給ひて、武内の大臣に仰せられて、南海へ御船を出し給ひしかば、おのづから紀伊国に至り給ひにき。その後、御子たち謀叛を起し給ひて、皇后を傾け奉らんとし給ひしほどに、赤き猪出で来たりて、兄の御子を食ひ殺してき。その後、次の御子、武内の大臣と、又戦ひ給ひしも失はれ給ひにき。さてもあさましかりし事は、この戦ひの間、昼も夜のごとくに暗くて、日数の過ぎしを、皇后大きに怪しみ給ひて、年老いたる者どもに問ひ給ひしかば、「二人をひと所に葬りたるゆゑなり」と申ししかば尋ねさせ給ふに、「小竹の祝と亡せにけるを、天野祝泣き悲しびて、『われ生きて何にかはせん』とて、かたはらに伏して同じく亡くなりにけるを、ひとつ塚に籠めてり」と申ししかば、その塚を毀ちて見せさせ給ふに、まことに申すがごとくなりしかば、ほかほかに埋ませさせ給ひて後、すなはち日の光あらはれにしなり。十月に臣下たち、皇后を皇太后にあげ奉る。この程とぞ覚え侍る。祗園精舎を天魔焼き侍りにけりと聞き侍りし。